2021(令和3)年6月17日、神奈川県の相模線へ、新型車両「E131系」を導入することがJR東日本より発表されましたね!
すでにE131系は房総エリアで2両編成が活躍中ですが、相模線では4両編成の導入が予定され、ラインカラーも相模線の濃い水色となるようです。

新型車両の導入で注目が集まっている今、ぜひとも記憶に残してほしいものがあります。
それは西寒川支線

かつて、相模線の寒川駅から短い支線が分岐していました。
すでに廃線となっていますが廃線跡が今でも残っており、知る人ぞ知る鉄道スポットになっているのです。

新型車両をお迎えする前に、一度路線の過去の話にも目を向けてみませんか?
今回は相模線の寒川駅からかつて存在した西寒川支線の廃線跡を辿ってきました。



一の鳥居直前で分かれる道

ということで寒川駅に来ました。
相模線は1991(平成3)年に電化されたものの、全線単線で上下線の行き違いも日常茶飯事。
その行き違いの1回が寒川駅で行われています。

茅ケ崎寄りの用田踏切から駅構内に向かって、もうほぼ使われていないと思われる線路が1本分岐しており、駅の真ん中にある軌陸車が入れそうなスペースまで続いていますが、それ以降は途切れています。
線路のない空きスペースに、かつての西寒川行きの専用ホームがあったと思われます。

駅の橋本寄りにある大山踏切で廃線跡はいったん途切れますが、橋本方面に進むと通りかかる大門踏切の手前で、雑草に覆われた廃線跡が左に曲がっていくのが確認できます。

ちなみに大門踏切の先にある鳥居は寒川神社一の鳥居
この先を歩いていけば二の鳥居・三の鳥居に行き着きますが、直接寒川神社を参拝する場合は宮山駅下車のほうが早いです。

今は緑道になっている

相模線寒川~宮山間、大門踏切の手前で相模線の本線と分かれ、左に曲がった先は緑道として整備されています。

過去に線路のあった部分が今は遊歩道となっており、その両脇には様々な植物が植えられていました。
隣には普通の道路も並行しています。

踏切があったと思われる部分は石畳になっており、その中にはレールの跡がそのまま残っているところも。
道路と交差しながら、両脇に並木が続く緑道を引き続き進むと…?

西寒川支線の廃線跡は一之宮公園に続きます!

公園内には当時使われていたレールが一部残っていました。
鉄路は錆び枕木は劣化し、ところどころ雑草に覆われてはいるものの、その状態こそ鉄道路線が生きていた何よりの証拠。

一之宮公園を出た廃線跡は路地裏に細く続いていきます。
道路との平面交差1ヶ所を過ぎて、ようやく終わりが見えてきました。

相模線・西寒川支線は最終的に八角広場まで続き、線路はここまで。
この場所が旧西寒川駅跡ということになります。
終端には、旧国鉄西寒川駅跡および相模海軍工廠跡の記念碑が建てられていました。

書籍やウェブサイトなどに当時の写真が掲載されているところもあり、それらを読むに西寒川駅は1面1線の駅だったとのこと。
つまり寒川駅からやって来た列車がそのまま折り返していく構造。
券売機のない改札口が屋根で覆われている程度の小さな駅だったようです。

1984(昭和59)年3月31日をもって営業を終了、翌4月1日に廃止となりました。
意外にも海老名駅開業(1987年)に先立ってのことでした。

寒川駅からここまで、線路通りに進めば約1.5km。
たった1駅だけの小さな支線でしたが、確かに単線の遺構に当時をしのぶことができました。



相模川の砂利採取用の支線だった

残念なことに役目を終えてしまった西寒川支線ですが、歴史の中でしっかり役割がありました。

そもそもの相模線の開業は1921(大正10)年9月28日
現在の茅ケ崎~寒川間と、相模川の砂利を採取・輸送するための支線、川寒川砂利支線(寒川~川寒川、1931年廃止)が開業したのが最初でした。

その当時はJRでも国鉄でもなく、相模鉄道という私鉄でした。
現在の相模鉄道とは別物です。

今軽く触れた通り相模川の砂利を輸送する目的で開業し、沿線では「砂利鉄」というあだ名を付けられていたとか。

西寒川支線は、相模鉄道線(当時)自体の開業に遅れること1年後、1922(大正11)年5月10日に寒川~東四之宮間で開業しました。
のちに東四之宮駅の手前に東河原駅が開業し、それが後に西寒川駅となるわけです。

開業当初の西寒川支線は、川寒川支線と同じく砂利輸送のための路線だったと考えられますね。

貨物輸送から工場従業員輸送へ

時を進めて1938(昭和13)年、森コンツェルン(昭和電工など)の会社、昭和産業が沿線に進出し、相模鉄道(当時)は昭和産業のグループ会社に買収されてしまうことに…。
1939(昭和14)年10月1日より東河原駅は昭和産業駅と改称(のちに四之宮口駅と改称)し、位置も現在の八角広場の線路跡の位置に移動したそうです。

1940(昭和15)年には、貨物営業しかやってなかった西寒川支線で、寒川~昭和産業間で1日2本、旅客営業を開始。
工場従業員の通勤輸送に支線が役立てられたというところですかね。

そして情勢は太平洋戦争へ…。
1943(昭和18)年に相模海軍工廠が一之宮地区に発足し、軍事輸送が本格化していきます。

そしてそして迎える1944(昭和19)年6月1日相模鉄道相模線は国有化され、鉄道省相模線となりました。
参考資料によれば、四之宮口駅はこの時に西寒川駅に改称されたと思われます。
また、時を同じくして西寒川~東四之宮間は廃止となりました。

日本国有鉄道(国鉄)が発足し、国鉄相模線となるのは戦後のことです。

非電化のままで迎えた終焉

1945(昭和20)年以降、相模線・西寒川支線に旅客営業はなかったのですが、戦後の相模海軍工廠跡地に民間企業の工場ができ、工場への通勤輸送の需要が年々高まっていったとのこと。

よって1960(昭和35)年11月12日より西寒川支線の旅客営業が復活!
茅ケ崎~西寒川間の直通列車が1日3往復運行されるようになりました。

もっとも、当時の相模線は電化されておらず、茅ケ崎駅から橋本駅まで、西寒川駅も含めて全線非電化。
車両もキハ10系列やキハ30系列の気動車でした。

しかしながら先に述べた通り、1984(昭和59)年3月31日をもって西寒川支線は廃止に。
晩年は1日4往復の旅客列車が運行されていたようですが、午前は西寒川8時33分発の茅ケ崎行きが1本あるのみ。
その次は16時18分発まで列車が全く来なかったとか。

こうして非電化のまま、国鉄民営化の前に西寒川支線は終わりを迎えることとなりました。
相模線が電化され、205系500番台が走り出すのは1991(平成3)年になってからのこと。

そして現在、次は電車の車両が世代交代を迎えることになります。
歴史が一つ先に進む今だからこそ、非電化時代で終わってしまった西寒川支線の遺構を訪ねてみれば、相模線の面白さに一つ理解が深まるかもしれません。



さいごに

今回は1984年まで寒川~西寒川間で存在した、相模線・西寒川支線の廃線跡を歩いてきました。

寒川神社一の鳥居の近くから本線と別れ、一之宮公園を経て、かつて西寒川駅があった八角広場へと続く廃線跡。
緑道として整備されつつ、ところどころに線路が残る約1,5kmの道のりに当時をしのぶことができますよ。

あまり長い道でもないので寒川駅から散歩してみるにもちょうど良いですね。
神奈川にも廃線跡があるってことが実体験でわかります。

なお緑道は一部、一般の住宅に近いところを通るので、地元住民の迷惑になることは絶対NG!
安全とマナーを守って廃線跡探訪をお楽しみください。

今回はここまで!
ありがとうございました。

参考

『JR相模線物語』 著:サトウマコト 230クラブ 2000年
『神奈川の鉄道 1872-1996』 編:野田正穂・原田勝正・青木栄一・老川慶喜 日本経済評論社 1996年
『プチ写真集 今日ものんびりJR相模線』 企画・編集:武相高校鉄道研究同好会 BRCプロ 2014年

一般社団法人・寒川町観光協会公式サイト
https://www.samukawa-kankou.jp/